前回までで、須菩提(しゅぼだい)はこう言いました。菩薩を見ず、菩薩を得ず、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)も見ず得ない。その名で誰かに般若を教える、ということ自体が、すでに危うい。
今回は、その空が「何もしないこと」ではなく、受けない行として開くところです。心を磨く話ではありません。心を心として握らない話です。
今回読む範囲
初品第一のうち、「是の菩薩の心を念わざるべし」から、「一切法に生無く成就無し」まで。書き下し(冒頭)
また次に世尊(せそん)、菩薩、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く学んで、是の菩薩の心を念わざるべし。所以は如何。是の心は非心(ひしん)なり、心相本浄(しんそうほんじょう)なるが故に。
「菩薩の心」を対象にして修しない。入口はここです。次から、舎利弗(しゃりほつ)との問答でこの一句が開きます。
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書き下し
その時、舎利弗、須菩提に語る。「此の非心の心有りや不や」と。須菩提、舎利弗に語る。「非心の心に、若しは有り、若しは無きこと得べしや不や」と。舎利弗言わく、「不なり」と。須菩提、舎利弗に語る。「若し非心の心に有無を得べからずんば、応に是の言をなすべしや、心有りや心無きや」と。舎利弗言わく、「何なる法をか非心と為す」。須菩提言わく、「不壊不分別(ふえふふんべつ)なり。菩薩、是の説をなすを聞きて、驚かず、怖じず、没せず、退かずんば、当に知るべし、是の菩薩、般若波羅蜜の行を離れず」と。
「若し善男子・善女人、声聞地(しょうもんじ)を学ばんと欲せば、当に是の般若波羅蜜を聞いて受持読誦し、説くが如く修行すべし。辟支仏地(びゃくしぶつじ)を学ばんと欲せば、当に是の般若波羅蜜を聞いて受持読誦し、説くが如く修行すべし。菩薩地を学ばんと欲せば、また当に是の般若波羅蜜を聞いて受持読誦し、説くが如く修行すべし。所以は如何。般若波羅蜜の中には、広く菩薩の学ぶべき所の法を説けばなり」。
須菩提、仏に白して言わく。
「世尊、我、菩薩を得ず見ず。当に何等の菩薩に般若波羅蜜を教うべきや。世尊、我、菩薩法の来去を見ず。而るに菩薩の字をなして、是れ菩薩なりと言わば、我は則ち疑悔(ぎけ)せん。世尊、また菩薩の字は決定無く住処無し。所以は如何。是の字は無所有(むしょう)なるが故に。無所有にはまた定め無く処無し。若し菩薩、是の事を聞いて、驚かず、怖じず、没せず、退かずんば、当に知るべし、是の菩薩は畢竟じて不退転地(ふたいてんじ)に住し、無所住(むしょじゅう)に住す」と。
「また次に世尊、菩薩、般若波羅蜜を行ずる時、色中に住すべからず。受想行識(じゅそうぎょうしき)中に住すべからず。何を以ての故に。若し色中に住せば、色の行をなすと為す。若し受想行識中に住せば、識の行をなすと為す。若し作法を行ぜば、則ち般若波羅蜜を受くること能わず、般若波羅蜜を習うこと能わず。般若波羅蜜を具足せずんば、則ち薩婆若(さつばにゃ)を成就すること能わず。何を以ての故に。色に受想無し。受想行識に受想無し。若し色に受無くんば、則ち色に非ず。受想行識に受無くんば、則ち識に非ず。般若波羅蜜にもまた受無し。菩薩は応に是の如く般若波羅蜜を学行すべし」と。
是を菩薩の諸法無受三昧(しょほうむじゅざんまい)、広大無量にして定め無く、一切の声聞・辟支仏の壊る能わざる所と名づく。何を以ての故に、是の三昧は相を以て得べからず。若し是の三昧、相を以て得べくんば、先尼梵志(せんにぼんじ)、薩婆若智に於て信を生ずべからず。先尼梵志、有量の智を以て是の法中に入る。入り已って色を受けず。受想行識を受けず。是の梵志、得の門を以て見ず。是の智、内色を以て見ず。是の智、外色を以て見ず。是の智、内外色を以て見ず。是の智、また内外色を離れて見ず。是の智、内受想行識を以て見ず。是の智、外受想行識を以て見ず。是の智、内外受想行識を以て見ず。是の智、また内外受想行識を離れて見ず。是の梵志、薩婆若智を信解(しんげ)す。諸法の実相を得るが故に解脱を得。解脱を得已って、諸法中に於て取無く捨無し。乃至涅槃にもまた取無く捨無し、と。
「世尊、是を菩薩の般若波羅蜜は色を受けず、受想行識を受けずと名づく。色を受けず、受想行識を受けずと雖も、未だ仏の十力(じゅうりき)・四無所畏(しむしょい)・十八不共法(じゅうはちふぐほう)を具足せざれば、終に中道にして般涅槃(はつねはん)せず。また次に世尊、菩薩、般若波羅蜜を行ぜば、応に是の如く思惟すべし。何等か是れ般若波羅蜜なるや。是れ誰の般若波羅蜜なるや。若し法、得べからずんば、是れ般若波羅蜜なるや、と。若し菩薩、是の思惟をなし、観ずる時に驚かず、畏れず、怖じず、没せず、退かずんば、当に知るべし、是の菩薩、般若波羅蜜の行を離れず」と。
その時、舎利弗、須菩提に語る。「若し色は色性を離れ、受想行識は識性を離れ、般若波羅蜜は般若波羅蜜性を離るる者ならば、何の故に菩薩、般若波羅蜜の行を離れずと説くや」と。須菩提言わく、「是の如し、舎利弗。色は色性を離れ、受想行識は識性を離れ、般若波羅蜜は般若波羅蜜性を離る。是の法、皆自性を離れ、性相もまた離る」と。舎利弗言わく、「若し菩薩、是の中に於て学ばば、能く薩婆若を成就するや」と。須菩提言わく、「是の如し、舎利弗。菩薩、是の如く学ぶ者は、能く薩婆若を成就す。所以は如何。一切法に生無く成就無きが故に。若し菩薩、是の如く行ずる者は、則ち薩婆若に近づく」と。
現代語の要約
菩薩は「菩薩の心」を対象にして修しない。その心は、有るとも無いとも言えない。色・受・想・行・識のどれかに住すれば、その住がそのままその行になる。受けないことが三昧である。この三昧は、相として所持できない。空を見て中道で止まっても、仏の働きが満ちるまでは涅槃に入らない。近づくのは、生もなく成就もないと見る行である。
ポイント 空ずることと、受けないことは違う
この段で大事なのは、五蘊を否定して別の境地へ行くことではありません。色を空じても、その「空じた」という行に住すれば、また色の行になります。
経が止めているのは、色そのものより先に、色の受け取り方です。受け取らなければ、壊す相手も残りません。ここを「無受」と呼んでいます。
「非心」も同じです。心がない、ではありません。心を有無のどちらかへ置かない、です。舎利弗が「非心の心は有るか」と問うたとき、須菩提は有無の答えを返しません。有無で答えられるなら、それはまだ心を対象にしているからです。
つまずきやすい所
「住すべからず」は、色を無視せよという意味ではありません。色を足場にして自分の行を組み立てるな、という意味です。
「無所住に住す」も、どこか別の場所へ移ることではありません。住処がないことに住する、という言い方です。場所が残った瞬間、また字が決定を持ちます。
「三昧は相を以て得べからず」。無受三昧を「今、自分が得ている状態」として確認した時点で、すでに相です。先尼梵志の一段がそれを示しています。内でも外でも、離れてでも見ない。得る門から入らない。取らず、捨てない。涅槃に対しても同じです。
もう一つだけ。色を受けず、識を受けないからといって、途中で終わってよいのではありません。十力・四無所畏・十八不共法が満ちるまでは、中道で般涅槃しない。空を見て静まることと、菩薩の行は別です。
次回
次回は、空ずること自体が行相になる段です。
色を行じても、色を空じても、その「私はこう行じた」が残れば、まだ方便ではありません。
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